同調圧力と「否認しない」こと―『福田村事件』ノート

映画は前半、「白」を点景として進む。

白布に包まれた骨箱、静子の白いパラソル、瑞々しい豆腐の白、朝鮮白磁の指輪…。(それは、人が元々持っているイノセントを表しているのかもしれない。)

そして、虐殺が描かれる後半は、鮮血の「赤」が画面を染めてゆく。

血の付いた白い朝鮮飴。

 

 

4年前の9月、千葉県野田市の福田村事件の跡地を辻野弥生さんの案内で訪ねるフィールドワークに参加した。事件から100年経つが、当時を想像しながら現場を歩くと、何かが身体に刻まれるような感覚があった。

森達也監督の映画『福田村事件』は京都で撮影されたとのことで、実際の現場は映っていない。だが、映画の事件のシーンを観ていて、薬売りたちの休憩した茶屋の位置や目の前の神社、そこから数10メートルはある利根川までの距離、それらの風景を思い出しながら奇妙なリアリティを感じていた。

 

 

映画は公開初日の9月1日にテアトル新宿で舞台挨拶付きで観た。18日に地元のキネカ大森で二度目の鑑賞。パンフレットを購入して通読したが、この映画の凄さは「視点の多さ」にあるという指摘(森直人氏)になるほどと思い、近年の日本映画には珍しい「大きな映画」という評価(大島新氏)にも頷けた。制作者らのインタビューにも教えられることが多かったが、私がこの映画から受け取ったものに呼応した記述はなかった。私の拙い感想はこの「大きな映画」の一側面に光を当てたにすぎないが、以下に記してみる。

 

映画を観る前、森達也監督の「被害の側ではなく加害の側を描く。善良な人間が加害者となる集団の怖さを描きたい」という趣旨の言葉を読んで、主人公が加害者になる話だと思い込んでいた。いつ井浦新が加害に手を染めてしまうのか、とハラハラしながら思いながら観ていた。だが、この映画は正確には、結果的に加害に加担してしまう「傍観者」に焦点を当てたものであったと思う。

 

 

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映画は事実に基づくフィクションになっており、前半は戦争の時代を背景に事件と直接関係ない男女の性愛が幾重にも描かれる。そこには、虐殺事件を描くにあたり、人間を生身の肉体を持った存在として描こうとする意思を感じた。快楽の源泉としての肉体と、暴力による死に至る苦痛の源泉としての肉体、その生々しい落差。

 

肉体性への指向は、映画の冒頭、汽車の中で兵士の骨箱を前に女たちが「寒かったでしょう」「涙もおしっこも凍るって」と語り合うシーンからも伺える。(映画を二度目に観た時、そのことに気づいた。)対象的に「いい戦争なんてない」という理念を語る澤田(井浦新)。共感して観ながら、どこかインテリの弱さも感じさせられる。

 

ところで、人は何らかの集団に属することなしに生きることはできない。集団同士の間に対立や葛藤が生まれる時、家族、地域社会、国家、民族といった自らの属性に従って、人は他方を排除したり迫害したりするのだろう。集団に生まれる「同調圧力」がこの映画の一つのキーワードだと思う。

その点で興味深いのは渡し船の船頭・倉蔵(東出昌大)の存在である。どうやら家族を持たず、村落共同体とも微妙に距離を取りながら、気ままに暮らしているらしい。孤独でありながら不思議に人を惹きつけるキャラは、さながらスナフキンを思わせる。渡し船という「あちらでもこちらでもない」在り方が、集団に属さない存在を象徴してもいる。

以前から集団を疑い「一人称単数」で語ることを提唱している森監督の思いが、倉蔵のキャラクターに仮託されているだろうか。(ちなみに、性愛描写の多さは森監督というより脚本の特に荒井晴彦の指向が強いように思う。)

さらに、前作の『i―新聞記者ドキュメント』を彷彿とさせる、ジャーナリズムの同調圧力に屈しない女性記者・恩田(木竜麻生)が、森監督の作品に込めたメッセージを体現していることは言うまでもない。

 

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主人公の澤田も、長く離れていた村に余所者の妻・静子(田中麗奈)を連れて帰郷しており、地域共同体とは微妙な距離を取っている。観客はその澤田の目を通して事件に立ち会うことになる。

澤田は朝鮮で通訳をしていた過去に、傍観者であることで結果的に虐殺に加担してしまった体験を持っており、心に深刻な傷を抱えている。そのために抑うつ状態からセックスレスとなり、夫婦関係は危機に陥っているほどだ。

村での虐殺に至る事件の現場のシーンは、興奮状態の人々が坩堝と化した集団の怖さがまざまざと迫ってきて、これだけでも映画の意図は成功していると思う。そして、観客は心のどこかで、その時に自分はどうするのかと問われる気持ちにならないだろうか。澤田が主人公である意味はそこにあるだろう。

 

「この人たちを知っています!」

一触即発の群衆の坩堝の中で澤田の発した一言から、一瞬、場の空気が変わる。行商団から湯の花を買ったと澤田は語り、静子も倉蔵らも続けて群衆に異論を唱えて場の空気が変わる。「同調圧力」がつかの間、ゆらぐ。

澤田は、「ほかにもこの人たちから買った人がいるはずだ。いるだろう?」(「いるだろう?」はシナリオにはない井浦新のアドリブであり必死さが伝わる。)だが、澤田の勇気に追随するものはいない。返って来たのは、静子に対する「おめえも鮮人じゃねェのか」という排外的な言葉だった。

社会構成主義という考え方がある。社会の中の人々のコミュニケーションが現実を作っているというものだ。ここでは正に、場の一人一人の言葉、一挙手一投足が「現実」を揺らがせ、「現実」を作っていく。その過程に息を呑む思いがした。人々のさまざまな感情が交錯する中、結果的には虐殺は「現実」のものとなる。一場はおぞましく鮮血の赤に染まっていく。

 

虐殺は止められなかった。では、澤田の発した言葉はまったく無意味だったのだろうか。少なくとも澤田はこの時、「傍観者」ではなかった。傍観者にならないということが、どれだけ大切で、しかし人間にとってどれほど困難なことか。

吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(宮崎駿の新作をインスパイアした)の中で主人公のコペルくんは、友人たちが先輩に殴られている場を見ながら怖くて隠れてしまう。そのことでコペルくんは澤田と同様な苦悩を抱えることになる。そして、これに類することは、人生の中で、誰しも一度や二度、経験したことはないだろうか。

 

二回目に映画を観た翌朝、ぼんやりとこのシーンのことを考えていた。そして別の言葉が脳裏から蘇ってきた。

「その人を知らず」

それは三好十郎が戦後に書いた戯曲の題になっている言葉で、キリスト教の信条に基づいて軍の召集に応じることを拒んだために憲兵隊に検挙された青年の話であったが、原典は新約聖書のマタイの福音書26章69~75節である。迫害され衆人環視の中で逮捕されたイエスを前に、使徒ペテロの反応が描かれる。長くなるが、「新改訳2017」から転載する。

 

<69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」

70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。

71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」

72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。

73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」

74 するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。

75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。>

 

長い引用となったが、これはペテロの「三度の否認」と言われる箇所である。私はキリスト教に精通しているものではないが、キリスト教の、人間の弱さ、醜さを正面から見つめるところに、これまで惹かれ関心を持って来た。

 

映画に戻ると、澤田は群衆が坩堝となったの場で、静子から「あなたはまた何もしないつもり?」と詰問されて、くだんの言葉を発していた。

澤田はこれまで二度、「傍観者」に終わっていたのだ。一度目は朝鮮で通訳をして虐殺があった時。二度目は静子と倉蔵の情事を目撃した時。そして三度目、澤田は「傍観者」であることを止めた。「この人たちを知っています!」と訴えた。ペテロになることはしなかったのだ。(ペテロはこの経験を経て後にキリスト教会の礎を築くのだが。)

 

いささかこじつけめくが、被差別部落出身の行商団のリーダー・沼部新助(永山瑛太)は、謎をめいた雰囲気と髭の風貌でどこかキリストを思わせる。何より映画には登場しないが、全国水平社の旗は荊冠旗と呼ばれ、キリストの被せられた荊の冠を象っている。

 

この映画は、埋もれた歴史の事実を掘り起こし世に訴えただけではない。社会派映画であるに留まらず、人間なるものの罪深さと救済への切なる希求がひっそりと込められた映画になっていると思う。